崇徳天皇とは「菅原道眞」「平将門」と並ぶ日本三大怨霊となったひとり。
今回は夏の季節に相応しく崇徳天皇についてご紹介します。
世の中を思い通りに操れるようにも思える、歌人としても数々の名歌を残した高貴な方がなぜ怨霊に成り果てたのか。
さてその経緯とは。
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目次
崇徳天皇、報われぬ生涯とその怨念
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崇徳天皇(すとくてんのう)(1119年(元永2年) - 1164年(長寛2年))は第75代天皇。
鳥羽天皇と藤原璋子(たまこ)との間に第一子として誕生。
曾祖父の白河法皇の命により保安4年(1123年)父の鳥羽天皇が譲位し(天皇の座を譲り)、わずか5歳(満3歳7か月)の幼なさで即位します。
けれど崇徳天皇は父鳥羽天皇の子ではなく、祖父白河法皇の子ではないかとの疑いがあり、父鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれる疎まれた存在でした。
大治4年、崇徳天皇10歳の時、白河法皇が崩御。父鳥羽上皇が崇徳天皇の代わりに政治を行うことになります。父鳥羽上皇は藤原得子との間に第二皇子・体仁親王をもうけます。そして体仁親王に皇位を継がせようと崇徳天皇に譲位を迫ります。
こうして、体仁親王は近衛天皇となり、崇徳天皇は崇徳上皇となります。
崇徳天皇は国を動かす権力を失うことになりますが、「新院」となり、この頃には歌会を開くなど和歌を詠むことを楽しんでいたといわれています。
保元の乱と讃岐配流
保元元年、父・鳥羽法皇が亡くなります。
崇徳上皇は面会に訪れますが、父の遺言により対面は叶いません。そしてついに挙兵を決断。後白河帝側と崇徳院側に分かれ、藤原氏・源氏・平家が加わった保元の乱が勃発します。
そして、後白河上天皇側が明け方未明崇徳上皇のいる白河北殿に火を放ちます。この夜襲に崇徳上皇は家臣たちを逃がし、東山の如意山へ逃れ、自らは剃髪し投降を決意します。
戦いに敗れ、剃髪した崇徳上皇は現在の香川県、讃岐に配流されることになります。
約8年の間崇徳上皇は讃岐で軟禁生活をおくり、46歳で亡くなっています。
そんな生活の中崇徳上皇は極楽往生を願い、写本作りに没頭します。そして自らの血を使って完成した写経を京都に送ります。
けれど、ほどなくして都からその写経は送り返されてきます。
天狗、大魔王となる
『保元物語』によれば崇徳上皇は怒りのあまり舌先をかみちぎり、その血を混ぜた墨で五部大乗経を筆写。
生きながらにして夜叉・天狗の様相となったと伝えています。
「この大乗経の善の力を全て悪道に投げ堕として日本国の大魔縁となり、皇を取って民にし、民を皇となさん」(われは日本の大魔王となって天皇を民に貶め民を天皇にする)という呪詛をかけます。
長寛2年(1164年)憤死。
没後の崇徳上皇の遺体は、上皇を慕う讃岐の人々によって府中に近い八十場に運ばれ、霊水「八十蘇場(やそば)の清水」によって清められ、生前の崇徳上皇が好んだ摩尼珠院に安置されます。
その遺体は21日を過ぎてなお、艶やかな生前の姿を留めたと伝えられています。
崇徳上皇の怨霊
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崇徳上皇没後、後白河法皇の身内に怪異が続きます。
まず、後白河法皇の息子・二条天皇が在位中に死亡。二条天皇の后である中宮、自らの女御、その十日後には孫13才の幼い六条天皇までが次々に亡くなっています。
さらには、翌年の1177年、京都の町の3分の1を焼く安元の大火。死者は数百人に及び、後白河法皇の御所も火災で焼滅。翌年には次郎焼亡と呼ばれる火災も起こります。
その祟りはなおも続き、崇徳上皇死去100年毎に大きな災いが繰り返されていると伝えられています。
1164年に崇徳上皇死亡
- 104年後の1268年、元に国交を迫られる、元寇のきっかけになる事件が勃発。
- 200年後の1364年、南北朝の動乱。
- 303年後の1467年、応仁の乱
が起きています。
明治天皇は即位にあたり、崇徳院の霊を京都に帰還させて白峯神宮を創建。戊辰戦争の際には怨霊鎮撫の祈祷を行っています。
昭和天皇は東京オリンピックの開催にあたり、崇徳天皇陵で式年祭を行いました。その際、水不足に悩んでいた香川県(崇徳天皇流刑の地)に大雨が降っています。
歌人「崇徳院」
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歌人として類い稀な才能を発揮しています
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」 「滝川の流れが岩に阻まれ分かれても再び合流するように、再び会えると信じている」
「朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ 咲きはじめける」「朝夕に 花の咲くのを待つ頃、開花を願う夢の中ではすでに花は咲き始めている」
「秋ふかみ たそかれ時のふぢばかま 匂ふは 名のる心ちこそすれ」「秋も深くなり、黄昏時の藤袴が匂うと、花が自分の名を名のっているような気がする」
文学になる崇徳天皇
文学でも怨霊としての崇徳院は描かれています。江戸後期上田秋成の『雨月物語』「白峯」では西行和尚と対峙。歌人の西行が、崇徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ歌を詠み、崇徳院の御霊を崇め奉ります
曲亭馬琴作、葛飾北斎画の長編伝奇小説『椿説弓張月』での崇徳天皇は源為朝の危機を眷属の天狗を遣わして助けています。
南北朝の動乱でも崇徳上皇が出現します。『太平記』巻二十七「雲景未来記」では天狗・魔王となった崇徳上皇の周りに、帝・武士・僧侶といった悲運人生をたどる歴史に残る人物たちが集い、魔界の宴を催しています。
現代でも報われない、崇徳天皇
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大河ドラマ「平清盛」では、白河院の不義密通によってできた鳥羽上皇の皇子。父に「叔父子」と呼ばれ忌み嫌わわれることになります。
「陰陽士平安妖絵巻」では生前から鳥羽天皇や白河上皇へ怨恨を抱き怨霊となり、後白河に近しい者たちを次々と襲い、操る幼き帝として登場しています。
崇徳天皇 まとめ
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上皇となって歌人としての道を極め、流人となって仏道「写経」に没頭する。
崇徳天皇とは繊細な人柄であったのだろうと推測します。
己との対話で、自分の境遇をいかに消化し受け入れるか。そんな自問自答を繰り返し、そして行き着いた結果に憤死してしまったとすれば、なんとも言い難い人生であったのだろうと思います。
『瀬を早み‥‥』百人一首のなかで知っている数少ない歌のひとつです。 心に残る良い歌です。