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崇徳天皇、夜叉・天狗になった歌人。三大怨霊のひとりに成り果てるまで

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歌川芳艶作

徳天皇とは「菅原道眞」「平将門」と並ぶ日本三大怨霊となったひとり。 

第75代天皇であり、数々の名歌を残したすぐれた歌人としても有名です 

 

最高位の天皇であり、歌人としての才能にも恵まれた高貴な方がなぜ怨霊に成り果てたのか。 

その詳細を探ります。 

徳天皇のその生涯とは 

 


 

崇徳天皇、報われぬ生涯とその怨念

藤原為信 作

徳天皇とは 

崇徳天皇(すとくてんのう)(1119年(元永2年) - 1164年(長寛2年))は第75代天皇 

鳥羽天皇と藤原璋子(たまこ)との間に第一子として誕生。 

諱(いみな 実名)は顕仁(あきひと)  

 

1123年2月〈保安4年)即位 

1142年1月(永治元年12月弟、近衛天皇に譲位 

在位中から優れた歌人としても名を馳せます。 

1156年保元元年)保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流 

1164年(長寛2年)8月、46歳で崩御しています 

 

『小倉百人一首』などに数々の名歌を残す歌人 

数々の怪異を引き起こし、「菅原道真」「平将門」と並ぶ日本三大怨霊としても知られています。 

 

徳天皇の生涯 

誕生と即位、そして譲位 

徳天皇は父・鳥羽天皇の子ではなく、祖父・白河法皇の子ではないかとの疑いがあり父鳥羽天皇からは「叔父子」と呼ばれる疎まれた存在でした。 

 

曾祖父の白河法皇の命により保安4年(1123年父の鳥羽天皇が譲位(天皇の座を譲り) 

わずか5歳の幼なさで即位します。 

 

けれど大治4年、崇徳天皇10歳の時白河法皇が崩御 

父鳥羽上皇が崇徳天皇の代わりに政治を行うことになります。 

父鳥羽上皇は藤原得子との間に第二皇子・体仁親王をもうけます。

そして体仁親王に皇位を継がせようと徳天皇に譲位を迫ります。 

こうして、体仁親王は近衛天皇となり、徳天皇は崇徳上皇となります 

崇徳天皇は国を動かす権力を失うことになりますが、「新院」となり、この頃には歌会を開くなど和歌を詠むことを楽しんでいたといわれています。

 

保元の乱と讃岐配流

保元元年、父・鳥羽法皇が亡くなります。 

徳上皇は面会に訪れますが、父の遺言により対面は叶いません 

そしてついに挙兵を決断 

後白河帝側と崇徳院側に分かれ、藤原氏・源氏・平家が加わった保元の乱が勃発します。 

そして、後白河上天皇側が明け方未明崇徳上皇のいる白河北殿に火を放ちます。 

この夜襲に崇徳上皇は家臣たちを逃がし東山の如意山へ逃れ、自らは剃髪し投降を決意します。 

 

戦いに敗れ、剃髪した崇徳上皇は現在の香川県、讃岐に配流されることになります。 

約8年の間徳上皇は讃岐で軟禁生活をおくり、46歳で亡くなっています 

そんな生活の中徳上皇は極楽往生を願い、写本作りに没頭します。 

そして自らの血を使って完成した写経を京都に送ります 

けれど、ほどなくして都からその写経は送り返されてきます
 

 

天狗、大魔王となる

『保元物語』によれば崇徳上皇は怒りのあまり舌先をかみちぎり、その血を混ぜた墨で五部大乗経を筆写 

生きながらにして夜叉天狗の様相となったと伝えています。 

この大乗経の善の力を全て悪道に投げ堕として日本国の大魔縁となり、皇を取って民にし、民を皇となさん」(われは日本の大魔王となって天皇を民に貶め民を天皇にする)という呪詛をかけます 

長寛2年(1164年)憤死。  

没後の徳上皇の遺体は、上皇を慕う讃岐の人々によって府中に近い八十場に運ばれ、霊水「八十蘇場(やそば)の清水」によって清められ、生前の徳上皇が好んだ摩尼珠院に安置されます。 

その遺体は21日を過ぎてなお、艶やかな生前の姿を留めたと伝えられています。 

 


保元物語 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

崇徳上皇の怨霊

歌川芳艶作

崇徳上皇没後、後白河法皇の身内に怪異が続きます 

まず、後白河法皇の息子・二条天皇が在位中に死亡。 

二条天皇の后である中宮、自らの女御、その十日後には孫13才の幼い六条天皇までが次々に亡くなっています。

さらには、翌年の1177年。京都の町の3分の1を焼く安元の大火。 

死者は数百人に及び、後白河法皇の御所も火災で焼滅。 

翌年には次郎焼亡と呼ばれる火災も起こります。 

 

その祟りはなおも続き、崇徳上皇死去100年毎に大きな災いが繰り返されていると伝えられています。 

1164年徳上皇死亡 

  • 104年後の1268年、元に国交を迫られる、元寇のきっかけになる事件が勃発。
  • 200年後の1364年南北朝の動乱
  • 303年後の1467年応仁の乱が起きています。 

明治天皇は即位にあたり、徳院の霊を京都に帰還させて白峯神宮を創建。 

戊辰戦争の際には怨霊鎮撫の祈祷を行っています。  

昭和天皇東京オリンピックの開催にあたり、徳天皇陵で式年祭を行いました。 

その際、水不足に悩んでいた香川県(崇徳天皇流刑の地)に大雨が降っています。  

 

歌人徳院

『小倉百人一首』「崇徳院」

歌人として類い稀な才能を発揮しています

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」 

「滝川の流れが岩に阻まれ分かれても再び合流するように、再び会えると信じている」

「朝夕に 花待つころは 思ひ寝の 夢のうちにぞ 咲きはじめける」

朝夕に 花の咲くのを待つ頃、開花を願う夢の中ではすでに花は咲き始めている」

「秋ふかみ たそかれ時のふぢばかま 匂ふは 名のる心ちこそすれ」

「秋も深くなり、黄昏時の藤袴が匂うと、花が自分の名を名のっているような気がする」

 

文学になる崇徳天皇

文学でも怨霊としての徳院は描かれています。 

江戸後期上田秋成『雨月物語』「白峯」では西行和尚と対峙。 

歌人の西行が、徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ歌を詠み、徳院の御霊を崇め奉ります 

 

曲亭馬琴作、葛飾北斎画の長編伝奇小説椿説弓張月での徳天皇は源為朝の危機を眷属の天狗を遣わして助けています。 


雨月物語 (岩波文庫)


雨月物語 [DVD]


私家本 椿説弓張月 (新潮文庫)

南北朝の動乱でも徳上皇が出現します。 

『太平記』巻二十七「雲景未来記」では天狗・魔王となった徳上皇の周りに、帝・武士・僧侶といった悲運人生をたどる歴史に残る人物たちが集い、魔界の宴を催しています。


私本太平記 01 あしかが帖


 

徳天皇、現代でも報われない(?) 

大河ドラマ「平清盛」では、白河院の不義密通によってできた鳥羽上皇の皇子。父に「叔父子」と呼ばれ忌み嫌わわれることになります

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陰陽士平安妖絵巻では生前から鳥羽天皇や白河上皇へ怨恨を抱き怨霊となり、後白河に近しい者たちを次々と襲い、操る幼き帝として登場しています。

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徳天皇 まとめ 

歌川国芳 作

上皇となって歌人としての道を極め、流人となって仏道「写経」に没頭する。 

徳天皇とは繊細な人柄であったのだろうと推測します。 

己との対話で、自分の境遇をいかに消化し受け入れるか。 

そんな自問自答を繰り返し、そして行き着いた結果に憤死してしまったとすれば、なんとも言い難い人生であったのだろうと思います。 

 

『瀬を早み‥‥』百人一首のなかで知っている数少ない歌のひとつです。   

心にしみる良い歌です。 

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