
室町時代、荏柄天神社蔵
受験シーズンになると合格祈願で訪れる受験生で賑わう天満宮は学問の神様として知られる天神様、菅原道真が祀られています。
その菅原道真は日本三大怨霊として恐れられた人物でもあります。
その菅原道真公に注目です。
怨霊になった経緯、それが転じて神となる。
菅原道真とは如何なる人物か、その生涯は。
実在した人間が神として崇められる所以を探ります。
目次
菅原道真、非業の死を遂げた類稀なる才人

菊池容斎作『前賢故実』
菅原道真とは
菅原 道真(すがわら の みちざね)は平安時代に実在した要人。
身分としては決して位の高くない一貴族の子として生まれ、その類稀な才能を持って、
- 官僚としては最高位の右大臣にまで登り、
- 学者としても知られ、
- 漢詩や和歌で多くの名歌を残した歌人、
- 書では「三聖(さんせい)」と称される多くの著書を残しています。
人柄もよく、子煩悩、人望厚い人物でしたが、その失墜を望む者の画策により、失脚。
都・京都から大宰府(九州)に流罪に近い左遷を受け、その地で非業の死を遂げます。
その後、怪異が勃発。
道真に敵対した多くの人物が亡くなり、道真の祟りと恐れられ、平将門・崇徳天皇(崇徳院)と並ぶ、日本三大怨霊の一人に数えられるようになります。
朝廷は道真の階位を戻し、菅原道真を「天神様」として祀る「北野天満宮」を建立。
学問の神様として崇められ、今日に至ります。
略歴

丁五圓券(1次5円)
- 貞観元年(845年)12年6月25日(旧暦8月1日〉菅原是善と夫人・伴氏の3男として誕生。幼名は「阿呼」。
- 貞観4年(862年)文章生(大学寮で歴史・漢文学を学ぶ学生)となります。
- 貞観9年(867年)文章得業生(特待生)となり、その学才が認められ「正六位下」(しょうろくいげ)の位を授かります。
- 貞観16年(874年)兵部少輔・民部少輔(兵や民の管理)に就任。
- 元慶元年(877年)式部少輔(文官、現在の文部省)、文章博士を兼任
- 元慶4年(880年)父・是善逝去。私塾『菅家廊下(かんけろうか)』の主宰、文人社会の中心的な存在となります。
- 仁和2年(886年)讃岐守(原・香川県)の国司)を拝任
- 寛平2年(890年)帰京。宇多天皇は側近として道真を抜擢。
- 寛平3年(891年)蔵人頭(主席秘書)、式部少輔、左中弁を拝任
- 寛平4年(892年)左京大夫(司法と行政機関)拝任
- 寛平5年(893年)参議、式部大輔(文部省官僚)、左大弁、春宮亮(皇太子の御所の内政)を兼務
- 寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられ、遣唐使の停止を奏上。
- 寛平8年(896年)長女・衍子が宇多天皇の女御(高位の女官)となります
- 寛平10年(898年)三女・寧子が宇多天皇の皇子・斉世親王の妃となります。
- 寛平9年(897年)権大納言、右近衛大将を拝任
- 昌泰2年(899年)右大臣を拝任。朝廷の最高位に就きます。
- 昌泰4年(901年)大宰権帥(大宰府(九州の長官)に左遷
- 延喜3年(903年)2月25日逝去。享年59歳
誕生
定説では承和12年(845年)6月25日(旧暦8月1日)、文章博士・菅原是善(すがわらのこれよし)の三男として、大和の國(奈良県奈良市菅原町周辺)で生まれたとされます。
けれど、誕生から幼少期にかけての史料はほとんどなく、兄弟についての記録も見つかっていません。
道真の詩の中に一人子と表現されるものがあり、現在は兄弟はいないと考えられています。
また、生誕地についても諸説伝えられています。
幼少期

月岡芳年作『月百姿』
菅原道真は幼い頃から類稀な才能を発揮し、わずか5歳で和歌、11歳で漢詩を読み、「神童」と称されました。
18歳で最難関である「文章生」(もんじょうしょう 大学寮で歴史・漢文学を学ぶ学生)となります。
青年期
以降、文章得業生、学者としての最高位であった文章博士(もんじょうはかせ)となり、少年期から青年期にかけては学問においても秀でた才能を発揮します。
壮年期
父・是善の没後は、多くの文人・官僚を輩出した私塾『菅家廊下』の主宰となり、文人社会の中心的な存在となります。
朝廷においては、宇多天皇に重用され、寛平の治(宇多天皇の治世)を支えた忠臣となり、最高位である右大臣にまで上り詰めます。
仁和3年(887年)に59代宇多天皇が即位。
宇多天皇と関白・藤原基経が対立(阿衡の紛議 (あこうのふんぎ))。
宇多天皇は藤原氏を牽制するため、菅原道真を側近として重用します。
寛平9年(897年)には道真は右近衛大将に就任。
このとき左近衛大将に就任したのが藤原基経の子、藤原時平。
昌泰2年(899年)右大臣に就任。左大臣に藤原時平が任せられます。
晩年

楊洲周延作「大日本史略図会」
昌泰4年(901年)、左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん 他人を貶めるための虚言)で、「道真が醍醐天皇を廃し、自分の娘婿で宇多天皇の第3皇子・斉世親王(ときよしんのう)を皇位に就けようと画策している」という罪に問われます。
菅原道真は大宰府へ左遷、道真の子・長男の高視を含め4人が流刑に処されます(昌泰の変 しょうたいのへん)。
菅原道真が任じられたのは太宰員外帥(だざいいんがいのそつ)という閑職。
◾️『政事要略』(長保4年(1002年)明法博士令宗(惟宗)允亮編纂 平安時代の政務運営に関する事例を掲げた書)によれば
道真の大宰府への道中には、監視として左右の兵衛各一名がつけられたとされます。
太宰府への移動は馬も食も支給されず、すべて自費。
◾️『菅家後集』(左遷中(901年〜903年)に詠んだ漢詩の私家集)「叙意一百韻」で自らの嘆きを綴っています。
道中は道真に敵対する者の悪巧みで絶えず危険に晒されたとされます。
落し穴などの罠にはめられ、刺客に襲われ、傷ついた駄馬や損壊した船を与えられるなど執拗な嫌がらせを受けたことが綴られています。
太宰府での生活は
俸給もなく、政務も役所の建物に入ることも禁じられ、ただ粗末な官舎で寝起きするだけ。
衣食住もままならず、窮困に喘ぐ日々をおくったとされます。
◾️『菅家後集』「叙意一百韻」の中で
太宰府は、人を騙して銭をまきあげる商人、簡単に殺人を犯す悪党、多くの群盗、汚職で私腹を肥やす役人がはびこり、「粛清することはもはや不可能」とされる程の治安の悪さを詠っています。
自身は、
- 自由に詩を作ることを禁じられたことの悲痛、
- みじめな自分の姿を見物に来る野次馬への苦痛、
- 心が狂想に陥っていること、
- 座禅を組み合掌して仏に帰依していること、
- 体が痩せこけ白髪が増えてゆくこと、
- 着物が色褪せていくこと、
- 時平一派への憤り、
- 天皇への忠誠の後悔、
- 家族・親戚までもが刑に処されたことへの無念、
- 過去の功績が抹消されたことへの悲憤
を綴っています。
太宰府へは、旅立つ際泣きじゃく幼子と離れがたく、姉紅姫、弟隈麿の2人を同行しています。
◾️『菅家後集』「慰少男女詩(幼い男女を慰める詩)」
『衆姉惣家留 諸兄多謫去 唯余最小者 随我向辺居』
「姉妹たちは、みんな(京都の)家に留まっている 多くの兄たちは流刑に処せられて去ってしまった 最も小さいものだけが残っている 私のそばにおいで」
不満や不安を漏らす幼子に「今の暮らしは決して悪いものではないんだよ」と優しく諭し、励ます内容の漢詩。
困窮した生活の中、親子で励ましあう姿が詠われています。
◾️『菅家後集』の冒頭、道長は
『詠樂天北窓三友詩』と詠っています。
これは
白居易の詩『北窓三友(ほくそうさんゆう)』琴・酒・詩を「北窓の下の三人の友」として愛したという詩に自身の境遇を重ね、詩だけが死までの真の友として残ったと詠んだ悲壮な詩。
謫居の北の窓に現れる雀と燕の親子、互いに支えあい、飢えさせることのない慈しみの行動は、家族を苦境に追い込んだ私では遠く及ばない。
その口惜しさに血の涙を流しながら、ただ天神地祇(てんじんちぎ 天と地全ての神々)に祈るのみ。
と詠っています。
菅原道真は左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府の地で薨去(こうきょ)。
享年59歳。
その前年、902年弟・隈麿が他界、数か月後に妻・島田宣来子死亡、その10日後に道真が逝去しています。
父を失った紅姫は、父から託された密書を長兄・菅原高視に届けるために密かに四国に向かいます。
道中、藤原氏の追手を逃れ若杉山麓に身を潜めますが、刺客にみつかり篠栗の地(福岡県糟屋郡)で亡くなったとされます。
人々は紅姫様の悲運を憐れんで祠を建立し、紅姫稲荷神社、紅姫は紅姫天王という稲荷神として祀られました。
家系
祖父は 菅原清公(すがわらきよとも)。 公卿(太政官の高官)で文人。
父は 菅原是善(すがわらこれよし)。 清公の四男。官位は従三位 官職は参議(太政官の官職の一つ)
祖父・父共に大学頭で文章博士、侍読(天皇に学問を教授する)も務めた学者ですが、位は中流の貴族。
母は 伴氏(ともし ばんし)。 伴氏自身も歌人で幾つかの作品を残しています。
伴(大伴)は奈良時代の歌人・大伴旅人や大伴家持を輩出した血筋。
妻は 正室は島田宣来子(しまだ のぶきこ)。
子は 長男・高視、五男・淳茂他男女23人、またはそれ以上に上るとされます。
孫 『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわら たかすえの むすめ) は道真の六世の孫とされます。
人物像 才覚

都良香邸で弓を引く道真。北野天神縁起絵巻
道真公は
⚫︎文人(学者)として 文章博士の称を受けた中心的存在であり、
⚫︎政治家として 最高位の右大臣にまで上り詰め、
⚫︎歌人、漢詩人として 名歌を残したことは人々の知るところでありますが
その他
⚫︎書では「三聖(さんせい)」と称され、多くの著書を残しています。
また
菅原家は代々
⚫︎神聖文字、
⚫︎占呪(気・呪術)を学び
⚫︎法律
⚫︎土木事業
⚫︎焼物
を祖業としています。
道真公自身も
⚫︎仙人や道士の秘法を学び、それを実践したという伝承も残されています。
道真は13世天台座主法性坊尊意に仏教学を師事したとされます。
尊意は平将門の調伏にも霊験があったと伝えられる高僧。
『北野天神縁起絵巻』(菅原道真の生涯を描いた鎌倉時代の絵巻物)にも怨霊となった道真公を天に返したその功績が記されています。
⚫︎馬術の師 乗馬を好み、のちに馬の背と垂直の姿勢を保つ騎乗法を『天神乗り』と称し、祀られます。
⚫︎弓道、都良香邸で射た矢が百発百中であったという伝承が残されています。
また、大蛇を矢で射て退治したという逸話も残されています。
⚫︎刀や仏像などの名工の一人に数えられます。
- 志明院の『眼力不動明王』
- 清閑寺の『十一面千手観音像』
- 大報恩寺の『千手観音立像』
- 住吉神社の『神鏡』
- 氣比神宮の『為当太神御神幣有奉納鉾太刀』など
道真公自刻として神社仏閣へ奉納しています。
︎また
- 宝剣「天國」
- 宝刀「神息」
- 神刀「猫丸」
- 脇差「小猫丸」
- 「毛抜形太刀」、など、
常に自作の様々な太刀を佩刀し、それを用い、河童や大鯰を斬り殺したという逸話も残されています。
著書・作品
著書
⚫︎『菅家文草』全12巻 昌泰3年、(900年)、自らの詩・散文集
⚫︎『菅家後集』延喜3年、(903年頃)、大宰府で作られた作品集
⚫︎『菅家御集』道真の死後に編纂された私歌集
編著
⚫︎『類聚国史』寛平4年 (892年)宇多天皇の命で編纂された歴史書。
⚫︎『日本三代実録』六国史の一つの歴史書
⚫︎『寛平御時后宮歌合』『是貞親王歌合歌』の和歌とそれを漢詩に翻案
⚫︎『新撰万葉集』寛平5年(893年)、宇多天皇に奉しています
その他
⚫︎『古今和歌集』に2首が採録
⚫︎『勅撰和歌集』に35首が入集。
梅と菅原道真

松崎天神縁起絵巻 14世紀・鎌倉時代
菅原道真は生涯にわたって梅を題材にした詩を詠っています。
⚫︎5歳の頃には
『梅の花 紅の花にも 似たるかな 阿呼がほほにも つけたくぞある』
「梅の花が紅(べに)色に似てきれいだ。阿呼(道真)の頬にもつけてみたいものだ」
⚫︎11歳
11歳の道真が詠んで周囲の大人たちを感嘆させたという漢詩。
『月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金鏡転 庭上玉房馨』
「月の光は晴れた日の雪のように白く輝き、梅の花は照り輝く星のようにきらめいている。慈しもう。黄金の鏡のような月が空をめぐり、庭園に梅の花が白くい房になって漂わせている香りを」
⚫︎太宰府へ旅立つ際に詠まれた詩
『東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』
「春風が吹いたら、香りをその風に託して太宰府まで送り届けておくれ梅の花よ、主がいないからといって、春を忘れてはならないよ」
⚫︎逝去直前に詠まれた漢詩
『謫居春雪 盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華 雁足粘将疑繋帛 烏頭点著思帰家』
「大宰府にも春の雪が降り積もって、城の内にも外にもどれほどの白梅が咲いたのかと見誤った。それでもやはり、新春一番に咲く梅の花のような、美しい早春の情景だ。雁の足に雪が粘りついているのを見ては、蘇武が匈奴から帰還できた故事を思い、カラスの頭に白いものがついているのを見ては、燕の太子丹が故郷に帰れたことを思う。」
福岡県の太宰府天満宮にあるご神木「白梅」は、一夜のうちに道真公を追って九州の太宰府へ飛んで行った「飛び梅」であるという『飛梅伝説』が伝えられています。
道真公は神と崇められた後も梅との関わりは深く
『梅は金剛界(煩悩を打ち破る力を持つ智慧)における天神で、天神は胎蔵界(すべての衆生を母親が胎内で子を育てるように守り包み込む「悟りの世界」)における梅である。渡唐天神像の梅を胸に抱く天神こそ、それら2つの宇宙の象徴である』とされます。
牛 と菅原道真

小林清親 作 菅公さとしの図
道真公は牛にも深い関わりをもちます。
⚫︎誕生は845年(承和12年)の丑年生まれ。
伝説では「丑の年の丑の日の丑の刻」生まれとされます。
延喜3年(903年)2月25日の丑の日に薨去(こうきょ 位の高い人が亡くなる)しています。
⚫︎太宰府へ向かう道中、刺客に襲われた際、牛車を引いていた牛が身を挺して賊を撃退し、道真の命を救ったという伝説があります。
⚫︎亡くなる際、轜車(じしゃ 棺を運ぶ車)を「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言。途中、車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、付近の安楽寺に埋葬。
その場所は、都府楼の北東(丑寅)の方角であったとされます。
⚫︎天神となった後、牛は「神のみつかわしめ」となりました。
現代でも全国の天満宮にある「なで牛」を撫でると、学業成就や病気平癒のご利益があると伝えられます。
詩歌
代表作として
⚫︎『此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に』 (百人一首 24番)
「この旅は神に捧げる幣も用意できませんでした。代わりにこの手向山の錦のように美しい紅葉を捧げますので、神よ、御心のままにお受け取りください。』
⚫︎『海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ』
「海のように深く水底まで澄み切っている清い心は、月の光がきっと照らしてくれるだろう」
⚫︎『水ひきの 白糸延へて 織る機は 旅の衣に 裁ちや重ねん』
「滝の落ちるさまは、まるで白い糸を延ばして布を織っている機(はた)のよう。この旅の衣として、裁って重ねて着ることにしよう」
⚫︎『君が住む 宿のこずゑの ゆくゆくと 隠るるまでに かへりみしはや』
「あなたが住んでいる(京の)家の梢が遠ざかって、隠れて見えなくなるまで、何度も振り返って見た」
漢詩
『去年今夜侍清涼 秋思詩篇獨断腸 恩賜御衣今在此 捧持毎日拝餘香』
「去年の今夜は、清涼殿で、帝にお仕えしていた。あの時「秋思」の詩を詠んだが、今はひとり、はらわたがちぎれるほど悲しい。帝から頂いた御衣が今ここにある。毎日それを取り出しては、残り香を拝んでいる。」
伝説

束帯天神像 北野天満宮蔵
菅原道真は生涯に渡りさまざまな伝説が残されています。
誕生
⚫︎「羽衣伝説」
滋賀県・余呉湖には道真が天女から産まれたという「羽衣伝説」が伝えられています。
あらすじ
あるとき、余呉湖の辺りに住む漁師の桐畑太夫は柳の枝に掛けられた天女の羽衣を見つけ、それを隠し、天に帰れなくなった天女を妻にしました。
そして、玉のような男の子・陰陽丸が生まれます。
けれど、天女は羽衣を見つけ天に帰り、太夫もその後を追って天にのぼってしまいます。
幼子陰陽丸だけが残され、菅山寺の僧・尊元阿闍梨(あじゃり)に引き取られます。
その幼子・陰陽丸が後の菅原道真。
道真を導いた阿闍梨(あじゃり)は菅原道真の師として知られた高僧です。
⚫神の申し子
︎島根県の菅原天満宮の伝承では、菅原道真は父・是善が出雲に赴任していた際、現地の女性との間に設けた子であるとされます。
幼名は「鹿児丸(かごまる)」。
6歳まで現地で育ち、神の申し子のような素晴らしい知恵を持っていたと伝えられています。
⚫︎産湯(うぶゆ)の池
道真の生誕地として名高い奈良県奈良市の「菅原天満宮」には道真が生まれた際に、この池の水を産湯に使ったという伝説があり、この池の底には、今も道真の魂が眠っていると伝えられています。
朝廷に仕え
⚫︎もくげんじゅ(木患子/木患樹)
元慶8年(884年)、道真公は叔母・覚寿尼のいる道明寺(大阪市藤井寺)に滞在。
大乗経の書写をしていると、二人の天童が現れ写経を守護し、白山権現、稲荷明神が現れ筆の水を運び、天照大神、八幡神、春日大明神が現れそれを埋納する地を示しました。
道真はそれを埋納するとそこから「もくげんじゅ(木患子 木患樹)」が生えてきたとされます。
⚫︎雨乞い
・同年元慶8年(884年)、都が大旱魃(かんばつ)にみまわれ、道真は陽成天皇の勅命により意賀美神社において祈雨祈願。みごと雨を降らせています。
・仁和4年(888年)讃岐の国でも大旱魃が起こり、讃岐守であった道真は七日七晩祭文を読上げ祈雨を祈願。
この時も見事雨に恵まれています。
その際、道真が舞ったとされる踊りは『西祖谷の神代踊』として、民衆が喜び踊ったものが『滝宮の念仏踊』として今に伝えられています。
⚫︎『桃太郎』『竹取物語』の作者
・女木島(香川県)には『桃太郎』は、道真が讃岐守であった時、当地に伝わる昔話をもとに作ったという伝説が残されています。
・また、『竹取物語』の竹取の翁は「讃岐造」という名であることから、道真が作者ではないかという説があります。
⚫︎人魚退治
小野の地(滋賀県)には、災いをなす人魚を菅原道真が退治、この地を久世傍(救世傍)と名付けたとされ、四角柱の人魚塚とともに今に残されています。
太宰府で
⚫︎藤原時平の呪詛
左遷の日、道真に敵対する藤原時平一派が勅宣と称し、陰陽寮の官人に道真とその子孫が絶えるよう呪詛・厭術を行わせています。
道真はこれを絶つ術心得ていたため呪いを免れ、子孫たちは神となった道真が守護しているといいます。
⚫︎腰懸石
岡山県にある天満宮には菅原道真ゆかりの『腰懸石』が祀られています。
これは、道真が太宰府に向かう途中、難産で苦しむ海女に一首の歌を与え、海女は安産したという言い伝えがあり、その時に道真が座ったとされるもの。
︎⚫︎鯰(なまず)岩伝説
福岡県筑紫野市には、鯰(なまず)岩という3つの岩があります。
これは、菅原道真が太宰府への道中、通行人を苦しめていた沼地のおおなまずを刀で頭・胴・尾の3つに切って退治。
それが巨大な3つの石になったと伝えられるもの。
後に雨を降らす雨乞いの石として祀られています。
︎⚫︎飛梅伝説
福岡県太宰府天満宮にあるご神木「白梅」には、菅原道真が愛した京都邸内の梅の木が、主人を慕って一夜にして太宰府まで飛んで来たという『飛梅伝説』が伝えられています。
太宰府天満宮の御本殿にある樹齢1000年を超える白梅がその木とされ、毎年他の梅より早く開花、今も人々に愛されています。
⚫︎河童の手
福岡県の北野天満宮には「河童の手の亡骸」が今も保管されています。
これは、901年、道真は筑後川で刺客に遭遇。
「三千坊」という河童が彼を救い、その際手を斬り落とされ落命した、あるいは三千坊が道真の馬を川へ引きずり込もうしてその手を道真に斬り落とされた、という伝承があり、その際の手であるとされます。
⚫︎御影の井戸
ある時、道真は忌宮神社(山口県下関市)の大宮司家を訪れ、庭にある井戸を覗き込みます。
水に映ったやつれた自分の顔を見て憂い「けれどもうこの土地に来ることも、この井戸で顔をみることもあるまい」と思い、自画像を描いたされます。
その後その井戸は「御影の井戸」と呼ばれ、「この井戸を覗いた者は目が潰れる」と言い伝えられています。
⚫︎鷽替え神事
延喜2年(902年)正月7日、道真が悪魔祓い神事を行い、その時無数の蜂に襲われ、鷽鳥が飛来してその蜂を食いつくし危難を救います。
それが後に鷽替え神事として現代に伝えられています。
鷽替え神事は主に1月25日(初天神)の前後に各地の天満宮で行われる神事。
菅原道真ゆかりの「鷽(うそ)」の木彫り(木鷽)を、「ウソ=嘘」と掛け合わせ、前年の悪いことをなかった(嘘)にするというもの。
怨霊になった由縁

『北野天神縁起絵巻』清涼殿落雷事件
道真公は死後、日本三大怨霊の一人に数えられる怨霊として恐れられます。
これは
- 延喜9年(909年)、藤原時平が39歳で病死。(道真死去から6年後)
- 延喜13年(913年)、右大臣・源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に死亡。
- 延喜23年(923年)醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)が薨御(こうぎょ 位の高いものが死去すること)。
道真の祟りであると人々が噂し、朝廷は
- 延長元年(923年)、道真を右大臣の階位に戻します。
けれど
- 延長3年(925年)保明親王の皇子・慶頼王(やすよりおう)薨御
- 延長8年(930年)、清涼殿(天皇が日常を過ごす建物)が落雷を受けて炎上(清涼殿落雷事件)多くの要人が亡くなります。
- 同年、醍醐天皇が体調を崩して、清涼殿事件の3ヵ月後に崩御。
- 承平3年(933年)時平の長男・保忠が死亡
朝廷は、
- 天暦元年(947年)菅原道真を「天神様」として祀る「北野天満宮」を建立。
清涼殿落雷事件によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、火雷神が祀られる京都北野寺の寺内「北野神社」に道真を祀ります
後に
- 正暦4年(994年)疫病が流行。道真の祟りとして恐れられました。
神になった道真公 天神様とは

小林永濯作『道真天拝山祈禱の図』明治時代
死後菅原道真は神仏習合の神
神名は 天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)
「天神様」として崇められ、道真公を祀る天満宮は全国に約12,000社存在するとされています。
代表的な総本社は京都の「北野天満宮」福岡の「太宰府天満宮」。
ご神徳
- 学問の神
- 芸能の神
- 至誠の神 正直・至誠を守る神
- 雷神 「北野神社」に祀られたことで、農耕をもたらす火雷神(慈悲の神)と習合
- 厄除け、あるいは災いを招く神 怨霊として恐れられたところから
- 冤罪を晴らす神
多様な神力を持つ神として崇められます。
天満大自在天神とは
万里集九(室町時代の禅僧)が記した漢詩文集『梅花無尽蔵』によれば、
天神には神号の他に5つの名と姿があるされます。
- 第一に 弥勒菩薩のいる都率天では千手観音の化身、
- 第二に 帝釈天のいる帝釈宮では大日如来の化身、
- 第三に 閻魔大王のいる琰羅天では地蔵菩薩の化身、
- 第四に 京都の北野に降れば文殊菩薩の化身、
- 第五に 九州の安楽寺に止まれば十一面観音菩薩の化身になる
天神は衆生を救う「仏身」であり「菩薩身」「長者身(富と徳を兼ね備えた指導者の姿となって法を説き、人々を教化(きょうか)する存在)」「居土身(家庭に身を置く(居士)姿となって人々を教化・説法する存在)」「宰官身(役人、官僚などの姿となって、権力や立場を持つ人々を導き救済する存在)」でもあるとされます。
無実の罪で亡くなった道真が天神となった後、天上界の神々が道真を陥れた者たちを糾弾し裁定。
梵天、帝釈天にこの世の災厄を任された天神は、眷属を使役し、不信の者が多くなれば災いをもたらし、正直者は護り救済するとされます。
天神が率いる眷属は、金剛力士、雷神、夜叉神、鬼王、風伯、毒龍、雷電、雨師、毒害邪神ら、総勢百万の猛霊、億千の霊祇とも記されています。
菅原道真が題材となった作品
- 『あるじなしとて』天津佳之著 菅原道真の政治家としての側面を描いた作品
- 『吼えろ道真 大宰府の詩』『泣くな道真 大宰府の詩』澤田瞳子著 左遷後の道真を描く
- 『時平の桜、菅公の梅』奥山景布子著 藤原時平との対比
- 『菅原道真 見果てぬ夢』三田誠広著 道真の生涯を描いた歴史小説
- 『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』滝川幸司著 菅原道真の評伝
- 『菅原道真:神になった天才詩人』大隅清陽著 詩人としての菅原道真
- 『天神様の正体: 菅原道真の生涯』森公章著
- 『菅原道真 (人物叢書)』坂本太郎著
菅原道真、天才、怨霊、神、現代でも多面的な存在
映画・ドラマ
2022年放送のドラマ『妖怪シェアハウス-帰ってきたん怪-』の菅原道真は第五話でゲスト妖怪、学問の神様として登場しています。
ーーーーーーーーーー
2024年公開『陰陽師0』の菅原道真は若き安倍晴明が対峙する怨念、超越的な力として描かれています。
ーーーーーーーーーー
ゲーム・アニメ
人気アニメ『応天の門』は菅原道真と歌人・在原業平が都で起こる怪事件を解決する歴史クライム・サスペンス。この中の道真は頭は良いが毒舌で人付き合いが悪いインテリキャラとして登場しています。
ーーーーーーーーーーー
『大神伝 ~小さき太陽~』の菅原道真はチビテラスたちの前に立ちふさがる怨霊王で月の民。ナカツクニを再び闇で覆いつくしたミスター菅原として登場
ーーーーーーーーー
人気アニメ『呪術廻戦』の菅原道真は五条家のご先祖さま。五条悟や乙骨憂太は菅原道真の子孫。
五条悟の秀でた能力は道真の血筋?
ーーーーーーーーーーー
菅原道真 まとめ

佐脇嵩之作 江戸時代 太宰府天満宮所蔵
菅原道真公、なるほど人間業とは思えぬほどの多彩な秀でた才能の持ち主です。
神と崇められるのも納得。
同僚がそんな人間離れした人物なら妬み心が生まれるのもわかります。
さすが五条悟のご先祖さまです❤️
